HISTORY.04

古豪復活に向け新時代へ

1986年(昭和61年)〜
FOLLOW

悲願の一部復帰

長期計画で改革を進めてきた塾水球だが、その努力が実を 結んだ。1986年(昭和61年)悲願の一部復帰を果たしたのである。強力な選手を獲得できていないながらも、伝統とも言える猛練習により、その後も一部の座を死守していた。
当時の大学リーグは、日体大が圧倒的な強さを誇り頂点に君臨し、それを追うように、筑波大、専修大、中央大、法政大などが2位の座を奪い合っていた。1部の中でも上位と下位の実力差は大きく、更に1部と2部の実力差も大きく開いていた。
話は脱線するが、圧倒的な強さの日体大に追いつかんと急成長したのが、筑波大であった。筑波大は、1979年(昭和54年)の室内プール竣工とともに急激に強くなったが、高い泳力のうえ、緩急のある頭脳的な水球をするチームであった。
筑波大水球部出身で現慶應義塾幼稚舎教諭である藤本秀樹は、学生時代に健志台クラブと激戦を繰り広げたことで、水球継続を決意、大学院に進学し、1987年(昭和62年)に幼稚舎の教員となった。合わせて塾水球のコーチに就任し、 塾水球に新しい風を吹き込んだ。更には、水球プールには日が落ちても練習ができるようにと照明設備が設置された。まさに昼夜問わずの練習体制となり、塾は古豪復活に向け邁進していった。

過去最大規模の部員数

1988年(昭和63年)、塾水球は空前の入部希望者を迎えることになった。新入部員が20人を超えるなど、過去最大規模の部員数となった。その要因は、10年前に、水球部員が教えた幼稚舎生達が、ここ数年に塾水球部を目指して進級してきたことである。当時主将であった峰岸克行は「部員数が多いことにより、効率よく練習するのに様々な工夫をした」と後日語っている。
同年、塾水球出身である平井顕吉が国際水泳連盟(FINA)水球委員長に就任した。日本人ではもちろんのこと、アジア出身者の初の委員長就任であった。

水球部の歴史1988年

塾ならではの水球を模索

1989年(平成元年)、塾水球は、再び2部降格となった。翌 1990年(平成2年)入替戦に出場するも一部復帰 には手が届かなかった。
1991年(平成3年)、関東学生リー グ1部昇格、五大学対抗戦連続優勝を果たした。同年、塾水球は韓国遠征を行い、韓国ナショナルチームと対戦した。 1971年(昭和46年)以来の18年ぶりの海外遠征であった。

水球部の歴史1991年

立ちはだかる1部の壁

翌 1992年(平成4年)には、再び2部に降格。その後数年間、オーストラリア遠征なども行い、戦力強化を図ってきたが、入替戦を戦うもあと一歩のところで、1部昇格とはなれず苦汁をなめていた。1999年(平成11年)には、 日吉プールを温水化し、早い時期から練習ができるようになった。同年、ハワイ遠征を実施し、現地で開催されたハワ イ国際大会で優勝を飾った。
ここ数年、部員不足に悩みながらも、2001年(平成13年)再び1部昇格を果たした。しかし、その後、1部と2部 の行き来を繰り返す状態が続いていた。
2003年(平成15年)、ナポリで開催されたFINA ジュニア国際選手権に河原邦夫が代表として選ばれた。カテゴリーはU−20であるが、1981年(昭和56年)の竹末泰士以来、22年ぶり となる塾からの代表入りであった。
2006年(平成18年)、協生館建設のため、日吉プールが閉鎖となった。活動拠点を失った塾水球は、練習場所の確保や、部員不足などに悩まされ、よい結果が出せなかった。
2008年(平成20年)、協生館が竣工し、塾は念願の室内プールを持つこととなった。これにより、年間を通して練習ができるようになり、長年の懸案だった練習環境は好転した。

古豪復活に向けて

2009年(平成21年)東日本水球リーグ1部昇格。2010年(平成24年)には、日本選手権で全中央を倒し、 32年ぶりとなるベスト4入りを果たした。2011年(平成23年)には、関東学生リーグにおいて1部に返り咲いた塾は、その後、1部と2部のきわどい状態が続く中、現在は1部リーグに所属している。
近年、塾高水球部の部員が増え、塾水球の選手層が厚くなってきており、戦力は確実に上向いている。 2018年(平成30年)に行われた第90回早慶戦では13−12で26年ぶりの勝利、続く2019年(令和元年)年も勝利し、連覇。同年の日本選手権では、慶應義塾大学としては初となる本戦出場を果たした。古豪復活に向け、選手一同練習に励み、これからも躍進し続ける。

テキストのコピーはできません。