Three treasures that sports give.

スポーツが与える3つの宝

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これは、1962年(昭和37年)10月28日に行われた、慶應義塾體育會創立70周年記念式典での講演録です。

1. スポーツがわれわれに与えるところの三つの宝というのは何々か。私は第一は、「練習の体験」を持つということが、われわれのスポーツによって受ける最も大なる恩恵の一つであると思います。「練習によって不可能を可能にするという体験」これをわれわれは体育会の生活によって得たと思います。

「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の碑 (慶應大学日吉キャンパス)

(1) 人類の歴史を大観すれば、その歴史というものは、私は大体において不可能を可能にしていく経路である、こう見ることができると思います。過去において現在に至るまで、「人類は無数の不可能を可能にしてきた」のであります。その不可能を可能にするのはいかにして行なわれるか。

(2) 第一は発見発明によります。鳥のように空を飛びたい、魚のように水を潜りたいということは、人類あって以来の宿題でありましたけれども、今日われわれはいかなる鳥よりもいかなる魚よりも、よく空を飛び、水を潜ることができる。これは発見発明によって可能となったのであります。月の世界に遊ぶということは不可能な空想の異名でありましたけれども、今日はもう月の世界に遊ぶということは空想でない、昨日月への飛行から帰ってきたという人に会っても、もはやわれわれはさほど驚かないだろうと思う。私どもはそれを見得るかどうかは別として、ここにおいでになる体育会の若い選手役員諸君は必ずそれを見るでありましょう、月から帰ってきた人という者に会うでありましょう。このようにわれわれは発見発明によって不可能を可能にしてきた。

(3) けれどもいま一つ不可能を可能にするものは何かといえば、練習であります。「練習によってわれわれは不可能を可能にする。」まあ早い話が水泳で、水泳を習わない者は水に落ちれば溺れて死ぬ、水泳は知っている者は浮かぶ。 水に落ちればすぐに死ぬ動物と水に落ちても生きる動物とでは全然別種の生物だと言ってもいいくらいでありますが、 練習によってわれわれは それをなし遂げ得る。 また子供が水に落ちたのを見てそれを救うことができないか、あるいは水に飛び込んでそれを救い得るかということは、 私は道徳的にみて非常な違いだと思いますけれども、この道徳的な非常な違いは練習によって得られる。

(4) スポーツはこの体験をわれわれに与えるのであります。理屈でも説教でもない、「ただ練習によってわれわれは不可能のことを可能になし得る。」まあ例えば水泳の飛び込みで10メートルの高さから水に飛び込む。これはいかなる勇士といえども、練習することなしにはできないと思います。100メートルを15秒で走るということは運動選手の間ではむしろ笑うべきことでありましょう。けれども全く練習しない者は100メートルを15秒かけても走ることはできない。このように「無数の不可能が練習によって可能となる」という体験は、われわれの人生において非常な大切な体験でありますが、皆さんは、また私どもは体育会の生活によってその非常な大切な真理を身に備えた、体得することができたと言えると思います。

(5) 孔子の論語の初めに、「学んでしこうして時にこれを習う、またよろこばしからずや」(学而時習之不亦説乎)というのがありますが、ならうというのは習という字が書いてあります。習という字は羽の下に白と書く。これはひなどりがはばたいて飛ぶことを習う形を表わしたものだということであります。「ひなどりは初めは飛ぶことができない。羽をはばたいて幾度か繰り返すことによって空にかけることができる。」諸君も体育会の生活において、到底できないと思ったことがただ練習を重ねることによって可能となった」という非常な尊い体験をお持ちであろうと思います。

(6) 亡くなった体育会の先輩の一人であります伊藤正徳君は各種の運動に秀でた選手でありました。ことにテニスは当時の日本における一流中の一流でありましたが、この人が後年ゴルフを始めて非常な速やかな進歩で、私はゴルフのことをよく知りませんけれども、ゴルフを始めて1年でハンディキャップ・セブン、これは驚異的な進歩ということでありますが、驚異的な進歩を示した。人がさすが伊藤の運動神経は違うといってほめました時に、伊藤君ははなはだ不 満で、私に向かって、「自分のゴルフの進歩は運動神経のためじゃない、自分が練習したからだ。ただどこまでも厳しく、規則正しく、また油断なく練習を続けるという習性は、塾の体育会時代に得たものだ」ということを伊藤君は述懐したことがありますが、これは私は今日おいでの皆さんはみなうなずかれることであろうと思います。天才とは異常の努力をなし得る人が天才だという言葉がありますが、体育の問題につきましても、われわれは器用とか不器用ということは問題でなく、いかによく練習に耐え得るかということが大切である。それはまたわれわれの生涯にとっても極めて貴重な真理であると思いますが、これを皆さん、ことにここにおられる若い学生諸君は、体育会の生活によって、この尊い真理を身につけることができるということは、よくおわきまえになっていただきたいと思います。先輩の一人としてそれを言いたいと思います。それが第一の宝です。

2. 第二の宝は、フェアプレーの精神です。

(1) フェアプレーというのは何かといえば、「正しく戦え」「どこまでも争え、しかし正しく争え」「卑怯なことをするな」「不正なことをするな」「無礼なことをするな」ということです。フェアプレーという言葉は英語でありますが、日本には昔から<尋常の勝負>という言葉があり、また負けっぷりがいいとか悪いという言葉がありますから、フェアプレーということは日本人によくわかる。しかしわれわれはやはりこの体育会の生活によって、フェアプレーが いかに尊いものであるか、またアンフェアなプレーを憎むという気持は、私自身について言えば、やはり体育会の生活の間に教えられたと思います。今日ここにお見えになっている学生諸君は後年諸君が年をとられてから、体育会にいた間に何を身につけたか、何を学んだかといううちに、必ずフェアプレーの尊いことを知るということが、その一ヵ条であると私は確信します。

(2) 英語で「ビー・エ・ハード・ファイター・アンド・エ・グッド・ルーザー」(Be a hard fighterand a good loser!)ということがありますが、ハード・ファイターというのはあくまでも果敢に戦う人、そしてグッド・ルーザーというのは「負ける時に潔よい人」ということであります。「果敢なる闘士であっていさぎよき敗者である。」これは諸君が体育会の生活によって身につけられる最も大切な宝を私は三つ数えますけれども、三つのうちの一つとしてご披露したい。

(3) 10年ほど前に私はロンドンにおりましたが、ちょうどダービーの競馬があって、そこに今のエリザベス女王の持ち馬が出場する、女王は非常な馬好きで、また競馬に熱心な方であります。ところがそのときに出場した騎手で、サー・ゴードンという有名な非常な人気のある騎手が、これは女王の馬に乗らないで他のサッスンという人の馬に乗って、それが一着になった。国民は女王の馬が一着になり得なかったことを惜しみながら、この人気のあるサー・ゴードンの乗った馬が一着になったことを大変喜んだ。そのときに女王は熱心に自分の馬の勝利のために応援しておられましたが、勝負がついて自分の馬が負け、サー・ゴードンの馬が勝った、そのサー・ゴードンをロイアル・ボックスといいますか、 皇室のさじきに招かれてそしてそこで握手を賜わった。その写真が出ておりまして、「クィーン・ザ・グッド・ルーザー」と書いてありました。「潔よく敗れてクィーン、グッド・ルーザー」と書いてありました。「敗れていさぎよきクィーン、グッド・ルーザー」というのはそういうことであります。皆さんもそれを体育会の生活のうちに身におつけになることを切に祈ります。

3. 三つの宝の第三は友です。

(1) 私自身も自分の過去現在を顧みて、私の最も「良き友」を体育会の生活のうちに得たことを深く感謝するものであります。「何を言っても誤解しない友」、また「何でも言える友」、「喜びを分かち、また苦しみを分かつ友」これを持たれることは生涯の宝であります。運動競技の体験を共にした間に得る友というものはこれは格別であります。

(2) 花や木は太陽の光を得て育ちます。われわれの心に持っておる良いものはやっぱり「良き友」を持つことによって育つ。ひまわりという花は太陽の方に常に顔を向けるということであります。ひまわりに限らず、花も葉も日の光を得て植物は茂る。それと同じように、われわれの心に持つ良きものは、「良き友」を得て茂るのであります。

(3) その友を得る機会は人生のさまざまな場面においてありますけれども、「運動の練習を共にした友」、「共に試合に出た戦友とも言うべき友」、あるいは「敵味方となって争ったその相手の人々」、 それはわれわれの「生涯にとって最も大切な友」になり得るのであります。私は慶應義塾体育会の生活を持ったことを、やはり過去を顧みて非常なしあわせだったと思いますが、そのしあわせを数えれば私はこの三つの宝を得た、そしてまた皆さんもそれを得られた、ことに若い諸君は今それを得つつある、得つつあるその宝を大切になさるようにということを申し上げたいのであります。今日はまことにありがとうございました。

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