HISTORY.03

「塾の水球」への信念

1966年(昭和41年)〜1985年(昭和60年)
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水球部の歴史1966年

低迷の中にも明るい兆し

東京オリンピック後、欧米若手選手の爆発的な活躍を目の当たりにした日本水泳界は、各地にスイミング・クラブを発足させるなど、長期的な視野にたった選手育成に力を入れはじめた。
大学水球では慶應、早稲田、日大のトップスリー体制から、 慶應が一歩遅れるようになり、早稲田と日大の2校が優勝を争うようになった。1966年(昭和41年)にバンコクで開催された第5回アジア大会には、OBである清水洋二、住谷栄之資の2名が代表に選ばれた。しかし、 現役学生から代表に選ばれたものはいなかった。こうしている間に、中央、法政 が実力を伸ばしていき、1968年(昭和43年)には、塾水球は、関東学生リーグ6位にまで低迷してしまった。その後、1972年(昭和47年) までの間、5位と6位の間を行き来することとなるのである。
しかし、この塾低迷期間において、塾高水球部が1968年(昭和43年)に関東大会優勝、日本高校で上位に食い込むなど、将来に向けて、明るい兆しが見えていた。
1970年(昭和45年)欧州遠征日本代表に峰岸直人が選ばれた。峰岸は同年バンコクで開催された第6回アジア大会にも代表入りし、優勝を果たした。1971年(昭和46年)、塾水球は香港遠征を行い、香港ナショナルチームとの対戦を含め、5戦全勝で帰国。翌年への手応えを感じていた。

水球部の歴史1966年

塾の快進撃 迫り来る日体大

1972年(昭和47年)、ついに塾は怒涛の快進撃を始める。早慶戦に勝利し、 日本選手権では準優勝。関東学生リーグでは、10戦全勝の完全勝利で優勝を果たし、日本学生選手権も優勝したのである。同年開催された第20回ミュンヘンオリンピックには、 峰岸直人が日本代表 として出場を果たし、再び塾の黄金期を迎えることとなった。
1973年(昭和48年)も塾の快進撃は続いた。早慶戦勝利、関東学生リー グ優勝、日本学生選手権優勝と大会連覇を果たした。しかし、この頃急激に力をつけてきたチームがあった。日体大だ。前述した、日本水泳界による若年層強化の影響もあり、若手の強力な選手が育ち、日体大に集まりつつあったので ある。同年の関東学生リーグで、唯一慶應に土をつけたのも、日体大であった。
1975年(昭和49年)の関東学生リーグ、 日本学生選手権、日本選手権では、塾は2位となった。唯一、日体大にだけ勝てなかったのである。日体大は、初優勝の年に、 3大大会全てを全戦全勝で手中に収めた。後にギネス認定された21年間376勝無敗記録の始まりである。
同年、テヘランで開催された第7回アジア大会に大貫利和が代表に選ばれた。4回連続でアジア大会を優勝していた日本チームだったが、5連覇ならず、3位という結果であった。
1976年(昭和50年)以降、塾水球は苦しい試合を続けることとなる。1978年(昭和53年)には、学生選手権のシード権を失い、関東学生リーグでは入替戦を戦うまでに低迷した。苦しい時期が続く中、1980年(昭和55年) 、欧州遠征の日本代表に竹末泰士が選ばれ、翌 1981年(昭和56年)の日中対抗水泳競技、ブカレストで開催されたユニバーシアードにも竹末は出場を果たした。

水球部の歴史1972年

部員不足と設備の遅れ

1982年(昭和57年)には、創部以来初の2部降格と なった。塾の低迷の要因の1つとしては、部員不足が挙げられる。 東京オリンピック以降、選手獲得が次第に難しくなり、 部員不足が顕在化してきた。部員数の減少により、ゲーム形式の高度な練習が困難になり、練習の質が他校より劣っていく、といった悪循環に陥ってきたのである。慶應義塾は、いち早く推薦制度を復活させるなど、対策を講じていたが、選手争奪戦が激化する中で外部からの選手獲得は難しかったのである。
次に、練習環境の変化がある。一部校の多くが年間通じての練習ができるように、水球対応の室内もしくは、加温照明設備付きのプールを持つようになり、施設面でも遅れをとって
いた。
第3には、水球のルールの方向性である。戦後、よりスピ ーディーにフェアにという方向で、水球のルールは改変されていったが、その結果、全員攻撃、全員防御のオールラウン ドプレイヤーを中心とした戦術が有効となっていった。全盛を極めていた日体大は、この戦略を柱にカウンターアタックを繰り出すプレイスタイルであった。この戦術には、全員が高いレベルのオールラウンドプレイヤーでなくてはならず、 選手層の薄い塾には困難な状況であった。

水球部の歴史1980年

「塾の水球」を求めて

このような苦しい環境下、塾水球は長期的な視点に立ったチーム改革に乗り出した。塾高で は、佐藤孝尚監督の号令のもと、部員の拡大を図り将来の選手層の拡充に乗り出した。また、水球部員が慶應スイミングスクールで幼稚舎生に水球を教えるなど、さらに先の選手育成にも乗り出した。
戦術面では、個々の特性を活かし、往年のフローティングシステムを採用し、当時キーパーであった濱田竜哉をフロー ターに据えるなど、選手の大胆なコンバートなども行った。 当時の大学監督は、戦前、フローティングシステムを完成させ、塾の黄金期を築き上げた名取正也であった。
限られた戦力の中で、より個性を活かしていく戦略を立て、 戦術としては伝統のスタイルであったが近代水球にも対応で きるよう、守備システムなども工夫を重ねていった。練習面 においては、科学的アプローチを導入し、より効率的な練習 を模索。代表や一部チームとの合同練習など積極的に出向き、 部員の少ない中でも質の高い練習方法を積極的に取り入れて
いった。

水球部の歴史1984年
水球部の歴史
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