HISTORY.02

戦後復興と塾水球

1946年(昭和21年)〜1965年(昭和40年)
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失われた時間を取り戻すため

終戦後、焼け野原となった東京・三田に水泳部員の声がこだました。昭和20年(1945年)12月にフィリピンから復員した神田明善を中心に、翌 1946年(昭和22年)から綱町プールで活動を再開した。敗戦後の混乱の中で、彼らがいち早く水球を再開したのは、青春時代の自分たちの財産である水球を一日でも早く取り戻したいという一心からだったに他ならない。のちに神田明善は次のように語っている。
「復員して数十日経ったら、もうボールと暮らしていましたから、これはもう気狂いの部類ですね」
この言葉からも、水球をプレイしていた時間を取り戻したいという、強い気持ちの一端が窺われる。

OBたちの活躍

1946年(昭和21年)7月7日。戦後初の水上競技会として、第14回早慶戦が開催された。しかしながら、失われた3年間の代償は大きく、試合としては甚だお粗末なものであったようだ。結果は1−7で塾の大敗であった。再び基礎強化の必要性を痛感したと選手たちは語っていた。
戦後、日本におけるチームスポーツの特徴として、OBたちの活躍が目立つ。水球も同様で、慶應OBの三水会、早稲田の稲泳会、関西で集まった混成OBチームである近畿水球クラブなど、戦前に活躍した選手たちが社会人チームを結成し、日本水球界を牽引していった。戦後の混乱期にもかかわらず、戦前水球に打ち込んでいた選手が、再び水球をプレイしたいという気持ちが強かったことがうかがえる。
学生チームはOBからの指導をうけ、メキメキと力をつけていき、戦前のような慶應、早稲田、日大によるビッグスリーの時代が再来した。OBチームが牽引していたころは、戦前の古い水球を引きずっていた部分は多々あったが、学生の成長に伴い、新しい方向の模索が進められていった。同じ頃、 世界においても水球ルールにおける問題点が顕在化し、よりスピーディーでフェアなプレイの方向へのルール変更が余儀なくされていった。このような時代背景のもと、このルールの変更にあわせ水球の戦術は変化していった。ポジションが 明確な分業化されたシステムから、全員で攻防を行うオールラウンドプレイヤーが中心のシステムに再び移行していった。これに伴い、日本水球は再び学生チーム中心の時代に移っていった。

破竹の40連勝と国際大会

1951年(昭和26年)、塾は関東学生リーグ戦で王者日大を破り優勝した。これを皮切りに、再び黄金期を迎えることとなる。翌 1952年(昭和27年)は、全戦全勝の完全勝利。1953年(昭和28年)の関東学生リーグで日大に敗れ、連勝記録こそ40で止まったものの、同年の関東学生トーナメントでは、 同大会6回連続優勝という偉業を成し遂げた。原動力となったのは、1949年(昭和24年)から12年連続で日本一と なった、塾高水球部のメンバーであった。
日本水泳は、1952年 (昭和27年)の第15回ヘルシンキオリンピックに、水球代表を 派遣できなかった。当時、植中耕一、田島直季、 平井顕吉、松本 疫、神田明善、小谷敏二、小谷保二と7名もの塾水球選手が日本代表に選ばれていた。
昭和29年(1954年)にマニラで開かれた第二回アジア大会には、監督に和田幸一。選手としてOBの神田明善、 現役の田島直季、市毛弘文、佐藤孝尚、荒川八郎の計5名が代表チームに選出された。しかし、シンガポールに破れ2位となり、1956年(昭和31年)の第16回メルボルンオリンピックの出場権を得ることが出来なかった。
1957年(昭和32年)の世界学生選手権(のちのユニバーシアード)には、卒業したばかりの佐藤孝尚が代表となり、翌 1958年(昭和33年)に東京で開催された第3回アジア大会では、佐藤孝尚、荒川八郎が代表入りを果たし、 日本水球界初の国際大会での優勝を果たした。これにより、 ローマオリンピックの切符を手に入れたのである。
1960年(昭和35年)の第17回ローマオリンピックにおいて、日本水球は念願の代表を派遣。塾からは佐藤孝尚、 山本健、清水洋二の3選手が選ばれ、神田明善もコーチとして代表に加わった。

水球部の歴史1952年
水球部の歴史1953年

戦後最大のイベント 東京オリンピック

ローマオリンピック後、日本中が東京オリンピックの成功を目指していた。塾水球も代表輩出を目指し、日々練習を重ねていた。しかし、上位に食い込むことはできても、優勝まで手が届かない状況であった。
1961年(昭和36年)ソフィアで行われた ユニバーシアードには、 清水洋二、井上宏の二名 が代表となり、翌 1962年(昭和37年)のジャカルタで開催された第4回アジア大会では、荒川八郎、清水洋二、井上宏が代表入りし、優勝を飾った。
東京オリンピックの前年である1963年(昭和38年)には、欧州遠征軍として荒川八郎、清水洋二、小山欣也の3名が選ばれ、 ポルト・アレグレで開催されたユニバーシアードには、井上宏、住谷栄之資が代表入りを果たした。また、塾は同年に韓国遠征を実施、3戦全勝で帰国した。
昭和39年(1964年)第18回東京オリンピックが開催された。塾からは荒川八郎、清水洋二の2選手が日本代表に名を連ねた。
しかし、東京オリンピックにおいて、日本水泳陣は惨敗を喫してしまう。水泳界は、これを機に抜本的な改革に乗り出すのである。塾水球においても、早稲田、日大から一歩遅れるようになり、3位に甘んじるようになっていった。

水球部の歴史1964年
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